2007年03月
油処理剤は、正確には「流出油乳化分散剤」と言い、海面に石油類が流出した際、油膜に散布して油を海水中へ乳化分散させる化学剤のことである。本稿では、わが国の巷間で親しまれてきた油処理剤という呼称を用いることにする。
油処理剤が世界で大きく注目を浴びるようになった契機は、リベリア船籍タンカーのトレイキャニオン(Torrey Canyon)号の事故である。
1967年3月18日イングランド南西部コーンウォール(Cornwall)半島先端のシリー諸島(Isles of Scilly)でこの船が座礁し、積載していたクウェート原油のうち117,000トンが流出して、イギリス海峡を始め、遠くフランス西部海域及び海岸、スペインの北方ビスケイ湾(Bay of Biscay)にまで広がった1)。
この油膜に対して英国コーストガードはもとより英海軍の艦船、航空機まで動員して、あらゆる防除策が講じられた1)。海上に広がった油膜を燃やす目的で航空機からの焼夷弾の投下までもが試みられた。一方、油が漂着した海岸の清掃に稀釈しないで原液のまま使用された油処理剤の毒性が、潮間帯や浅海域の生物に甚大な影響を与えて二次汚染を引き起こし1)、世界中に油処理剤の強い毒性を印象付ける結果となった。
我が国では、1971年11月30日新潟港外に錨泊中であったリベリア船籍タンカーのジュリアナ(Juliana)号が強烈な風浪に流されて座礁し、船体が二分され、積載していたオマーン原油7,200kLが流出した。その一部は民家が近くにある海岸に漂着したため、万一油が炎上した場合の民家への類焼を危惧して、海上の油膜に対して油処理剤散布が適用された。この時、トレイキャニオン号事故時に用いられたのと同様な性状の油処理剤が用いられた。
上記の二件の事故時に用いられた油処理剤は第一世代 油処理剤と呼ばれている2)。この製品は、芳香族画分が多く含まれた炭化水素系溶剤にノニルフェノールエーテル等のアルキルフェノール系の非イオン型界面活性剤注)を配合したもので、溶剤・界面活性剤ともに対生物毒性が強かった3,4)。当時は、芳香族画分が多い溶剤を使えば、油が乳化した後で油と油処理剤に再分離しにくいと考えられていた為にその点を考慮した油処理剤が開発されたのである。第一世代 油処理剤は油膜を乳化分散する機能は優れていたが対生物毒性が強いので、社会的に評判が悪く、より毒性の低い油処理剤の開発が待望された。
第二世代 の油処理剤は、芳香族画分を含まない炭化水素(ノルマル-パラフィン)溶剤をベースとし、これに脂肪酸系もしくはソルビタン系の非イオン型界面活性剤を配合することで大幅に対生物毒性を下げた製品である2)。
第一世代 油処理剤・第二世代 油処理剤は共に、海面の油膜に散布した後、船のスクリュウもしくは船が曵航する攪拌板で海面を攪拌して、流出油と油処理剤の混合物を海水中へ分散させる作業が不可欠である2)。
次に開発されたのが、この攪拌作業を行う必要のない第三世代 油処理剤である。
英国では、船の海難事故が多発するオークニー諸島(Orkney Islands)海域やシェトランド諸島(Shetland Islands)海域には多くの暗礁があり、攪拌作業中の作業船が座礁して二次汚染を起こす危険性が高いことから、航空機で海上の油膜に油処理剤を散布し、散布後の攪拌作業を行わずに放置しておけば油膜が海水中に分散していく『Self-mixing型もしくは自己攪拌型』と呼ばれる油分散剤が開発された。これを現在、第三世代 油処理剤と呼ぶ。
我が国でも独自に、第三世代 油処理剤を開発しており、既に最近の油流出事故処理に使用されており、その性能は高い評価を得ている。組成はグリコール系両親媒性溶剤に、脂肪酸系の非イオン型界面活性剤を配合しているのが特徴である2)。
海面に流出した油は、時間の経過とともに変質していく。軽質油では空中への揮発画分が多いので、体積が減少する。一方、重質油では揮発画分が少なく、かつ海水が油膜の中へ微粒子となって侵入するので経時的に体積が増大するとともに、粘度も増して固めのグリース状になる。上記のような流出油の変性過程をムース化と言い、変性した油をエマルジョン(water in emulsion)あるいはムース(mousse)と呼んでいる5)。
このように変質した重質油膜に油処理剤を適用しても、油膜中の水微粒子が油処理剤の浸透を阻害するので、乳化分散は行われなくなる。ムースは、もはや液体としてではなく固体と見做して、ガット船すなわちクレインバージ船で油塊を掴み取って海面から除去回収しなければならない。
故に、流出油への油処理剤の適用作業は、油膜が変質する前に迅速に行われなければならない。
流出油を乳化分散させるのに必要な油処理剤の量は、第二世代 油処理剤を用いる場合は原油や軽質油では流出油量の15〜20%が必要であり、重質油では流出油量の20〜30%が必要とされている2)。
第三世代 油処理剤を用いる場合は、原油と軽質油に対しては4〜8%量の油処理剤が、重質油に対しては流出油量の4〜12%の油処理剤が必要とされている。
すなわち、第三世代 油処理剤ならば、第二世代 油処理剤の半分以下の散布量で作業は完了し海洋環境への負荷が軽減される。
第三世代 油処理剤の対生物有害性は極めて低いので、海洋生物への影響も軽減されると考えられる。第三世代 油処理剤の対生物毒性が低い6)と言っても、防除作業当初から油処理剤を散布するのではなく、前もって吸着マットやゲル化剤やスキマーなどで海面から流出油を除去した後で残油に油処理剤を適用するのが、流出油防除の基本である。
油処理剤を使用すると、油が海底に沈殿し、底棲生物に悪影響があると主張する識者がいる。だが、油も油処理剤も、油と油処理剤の混合物も、海水よりも比重が軽いのである。
更に通常、水深20m以浅の海域では底棲生物への万一の影響を配慮して、流出油膜に油処理剤を適用しないことになっている。水深20m以浅の海域では、油処理剤の散布により微粒子になった油滴が海水の動きに伴って海底にまで拡散して、海底近くの海水から非常に微量な油分が検出される事もある。
しかしながら、拡散させた微粒子状の油は極めて微細な粒子のため、付着性が無いので海岸を汚染しない。油処理剤を使用しないで海面に浮遊する油膜を放置するならば、流出油が海岸を汚染し、汀線付近の生物に悪影響を与えることになるのだ。
海水の交換の少ない入り江や塩沢地が油汚染された場合は、汚染域に栄養剤を散布して土壌に棲む微生物に依る油分解を促進するBioremediationという方法がある。海が油汚染された場合は、油処理剤を散布して海面の流出油を微粒子化して油の表面積を増やすと、海中のバクテリアが海水に溶存する栄養分を摂取しながら微生物分解を行い易くなる。これもBioremediationの一種と考えられないだろうか。
流出油の防除に関しては、防除資機材の種類や備蓄も充分に整い、事故への即応態勢も整ったように思われる。昨年幾つかの事例があったが、ケミカルタンカーからの危険有害化学物質HNS(Hazardous Noxious Substance)による汚染に対する態勢を整備するのが急務であろう。
注) ノニルフェノールエーテル等のアルキルフェノール系の非イオン型界面活性剤の分解物質であるノニルフェノールは、環境省により「魚類に対して内分泌かく乱作用を有することが強く推察された」とされている7)。